
こんにちは!松戸の地域情報を発信する「松戸ペディア」です。
春の陽気が心地よい季節になりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
今回は、現在松戸市戸定歴史館で開催中の、歴史ファン必見の展示「お初にお目にかかります 大集合!初めて展示される資料たち」を鑑賞してきましたのでレポートします

どんな展示
戸定歴史館といえば、徳川昭武やその一族に関する貴重な資料ですよね。今回の展示の最大の目玉は、タイトルにもある通り「これまで展示会でお披露目されてこなかった初公開の資料」が一挙に集結していることです!


展示は大きく分けて以下の4つのコレクションから構成されています。
- 松戸徳川家資料: 初代松戸徳川家当主・武定(昭武の次男)の命名書や、武定1歳のかわいらしい写真など。
- 津山松平家分家資料: 徳川慶喜から、孫の成長を安心している様子が記された直筆の書状など。
- 須見裕旧蔵資料: なんと、現在確認されている中で最古の徳川昭武の写真(元治元年撮影の可能性あり!)が展示されています。
- 毛利政子旧蔵資料: 昭武の次女・政子宛ての書状など。写真の現像液の作り方についてのやり取りが残っています。

松戸市戸定歴史館 令和7年度通常展Ⅱ 展示解説
お初にお目にかかります
大集合!初めて展示される資料たち
会期 令和8年2月14日(土)〜5月31日(日)
当館では開館以来、徳川昭武とその一族に関わる資料を収集し、調査・研究を進めてきました。その成果は、これまでに開催した展覧会や作成した図録などにて発表しています。しかし、調査・研究によって歴史的な価値が認められながらも、展覧会でお披露目できていない資料も多くあります。また、新たに収集した貴重な資料も少なくありません。本展覧会では、これらの資料に焦点をあて、初めて展示される資料を中心にご紹介します。
松戸徳川家資料
松戸徳川家は、明治25年(1892)5月3日、水戸徳川家11代当主・昭武(1853〜1910)の2男・武定(1888〜1957)が水戸徳川家より分家し、昭武の勲功により子爵を授けられて成立しました。
昭武の死後、武定は明治44年(1911)9月1日に戸定邸を松戸徳川家の本邸に定め、のちに相続で自身の名義としました。また、昭武が残した資料も受け継ぎ、整理に尽力しました。現代まで松戸徳川家資料が伝わったのは、武定の功績が大きく、徳川昭武の生涯を分析する基礎資料となっています。加えて、松戸徳川家資料には、武定をはじめとする一族に関わる資料も多く伝来しており、当館では同資料を継続的に研究しています。
(写真右下キャプション)
前列左から徳川達孝(田安徳川家当主、のち徳川武定岳父)、徳川昭武(前水戸徳川家当主)、徳川圀順(水戸徳川家当主、昭武養嗣子の篤敬長男)、徳川頼倫(紀伊徳川家当主、徳川達孝弟)。後列左から徳川武定(松戸徳川家当主、昭武2男)、毛利元雄(長府毛利家当主、昭武2女政子の夫)、徳川厚(徳川宗家分家当主、徳川慶喜4男で昭武の甥)、松平頼壽(高松松平家当主、昭武長女昭子の夫)。
昭武の右胸に明治36年(1903)4月1日受章の勲二等瑞宝章があり、武定が東京高等師範学校附属中学校の制服を着用しているので、明治40年(1907)3月卒業以前の撮影となります。また、毛利元雄が昭武2女政子と結婚するのは、明治39年(1906)6月17日なので、明治39年ないし40年の撮影と推定されます。
徳川昭武・武定ら集合写真
1906〜1907、撮影 17.1×26.2cm 2-2-3-246

津山松平家分家資料
明治21年(1888)11月1日、津山松平家11代当主・松平斉民8男の齊(1874〜96)は、津山松平家より分家し、斉民の勲功により男爵を授けられました。ここに、津山松平家分家が成立します。
齊は、明治28年(1895)12月に徳川慶喜7女の浪子(1880〜1954)と結婚しました。浪子は、明治30年(1897)2月10日に長男・齊光(1897〜1979)を出産、同37年(1904)5月20日付で齊光が津山松平家分家2代当主となります。齊光は、大正9年(1920)11月14日、徳川昭武の3女・直子(1900〜89)と結婚しました。
令和6年(2024)、当館は津山松平家分家より同家の実態や徳川慶喜・昭武、戸定邸について新たな事実を発見し得る貴重な資料の寄贈を受けました。
(書状の画像)
松平浪子宛て徳川慶喜書状(明治30年7月2日付)
徳川慶喜 1897.7.2 17.1×73.5cm MN-39-6-22
本展では、明治28年(1895)12月から明治30年7月の松平浪子宛徳川慶喜書状を出品しました(前期10点:後期3点)。この3年間は、齊・浪子の婚礼、齊の失踪、浪子の出産と、津山松平家分家にとって、多くの転機が訪れた時期です。このような時期にあって、浪子の父であり、齊の義父、齊光の祖父であった慶喜の眼差しが本書状群から垣間見えます。
浪子の懐妊直後の明治28年12月12日付け書状には、齊や渡邉須磨子(津山松平家14代当主・康民の生母)らへ「よろしく」伝えるよう記されており、慶喜の両者への気配りがうかがえます。嫁ぎ先における娘・浪子の人間関係も気にかけていたと思われます。出産後は、明治30年5月10日、7月2日、7月17日と齊光について言及された書状が続きます。生後間もない齊光の容姿を気にかける祖父の姿が浮かび上がります。加えて、7月17日付け書状には浪子の弟・久の近況が報告されています。本書状以外にも、慶喜の子であり、浪子の兄弟が登場する書状が散見されます。浪子にとって、父・慶喜の書状は兄弟の近況を知り得る一つのツールでした。
また、写真について言及された書状もあります。「何れもよくうつり候」(明治29年6月13日付書状)といった浪子から送られた写真を評する文言からは、写真を撮影するだけでなく、鑑賞をも好んだ慶喜の個性がうかがえます。
(左下の女性の写真)
姿見邸にて松平直子(大正12年撮影)
1923.4〜5.撮影 12.1×8.2cm MN-60-11
(右下の絵図の画像)
高田源兵衛村堀兵庫頭抱屋敷等絵図(嘉永元年3月22日)
1848.4.25 42.6×61.3cm MN-20-34
姿見邸とは、現在の東京都新宿区の高戸橋交差点付近一帯にあった津山松平家の抱屋敷、のちに津山松平家分家の本邸となった邸宅です。姿見橋の近くにあったため、江戸時代には姿見御屋敷、明治時代以降は姿見邸と呼ばれました。
姿見邸の敷地について、津山松平家が購入する以前の状況を確認すると、文政9年(1826)春以前は、伊東弥平太(幕府旗本か)の屋敷地約2万坪があり、美しく風流めいた御殿があったといいます。この約2万坪が伊東の屋敷地になる以前は、伊藤と松平志摩守(出雲母里藩松平家か)、松平市正(豊後杵築藩松平家か)の3者の所有地だったようです。

文政9年春、この土地は信州飯田藩堀家が藩主・親藩の隠居後の住まいにするために購入しました。購入時は、荒れ地になっていたようです。よって、堀家の抱屋敷となり、高田源兵衛村にあったため高田御屋敷と呼ばれました。
高田御屋敷の庭園は、儒学者である林述斎が作成した楽其楽園として知られ、のちに名園であったと評価されました。天保8年(1837)に儒学者の安積艮斎が『楽其楽園記』を著しているので、このころまでには高田御屋敷の造作は完了していたと見られます。
弘化3年(1846)に親藩は隠居し、翌年12月に高田御屋敷へ移りました。親藩は嘉永元年(1848)12月に亡くなり、翌年、飯田藩堀家は屋敷地を売却することにしています。
その後、屋敷地は尼崎藩松平家の手に渡り、安政6年(1859)7月11日に津山松平家分家が16760坪を4000両で購入しました。安政2年に隠居となっていた津山松平家11代当主・松平確堂(斉民)の住まいとするためです。確堂は、安政6年11月27日から明治5年(1872)1月26日まで暮らしました。この間、元治元年(1864)には作事がおこなわれており、修繕や増改築、庭の手入れがおこなわれています。
確堂が姿見邸を離れた後も津山松平家ないし同分家が所有を続けたようで、明治32年(1899)3月12日には「姿見御邸御午祭り」がおこなわれています。大正9年(1920)中には、津山松平家分家の本邸となり、戦後まもなくまで存続しました。
須見裕旧蔵資料
徳川昭武の4女・温子(1901〜95)は、大正10年(1921)4月16日、丸亀京極家11代当主・高修(1891〜1967)と結婚し、1男4女を授かりました。その3女・千代子(1929〜2024)は、須見裕(1922〜87)と結婚します。
陸軍大尉であった須見裕は戦後、一級建築士となり、歴史研究にも心血を注ぎました。昭和59年(1984)には、中央公論社より『徳川昭武 万博殿様一代記』を出版します。松戸徳川家2代当主・博武(1910〜86)の協力を受けながら、「一族の長老」一橋徳川家12代当主・宗敬(1897〜1989)の許しを得て研究・執筆にあたりました。徳川昭武研究のパイオニアと言っても過言ではないでしょう。須見裕が昭武研究を進める中で収集した資料は須見家に伝わり、令和7年(2025)に当館へ寄贈されました。
(右側の解説文)
この写真の画像は図書に掲載されたことはありましたが、現物の所在は不明でした。令和7年(2025)6月24日、戸定歴史館の調査により須見家で発見され、同年寄贈を受けました。
被写体は衣冠姿(大礼服に相当)の徳川昭武です。印画紙は薄い鶏卵紙で厚手の台紙に貼られています。写真が撮影された当時、昭武は御所警衛のために京都に滞在していました。
兄・徳川慶喜の京都御旅館(小浜藩の空藩邸)で、慶応2年3月10日(1866.4.24)に撮影されたと考えられる狩姿の写真と比べると、やや幼い印象を受けます。では、これ以前に昭武が参内用の衣冠を着用して写真を撮影する機会はあったのでしょうか。一つ考えられるのは、御所に昇殿を許される従五位下に叙せられた元治元年11月19日(1864.12.17)前後、もう一つには新年拝賀として参内した慶応2年1月4日(1866.2.18)前後です。幼さを考慮すると前者の可能性が高いですが、いずれも確定はできません。
また、本写真は慶応2年12月(1867.1)に撮影されたと思われる将軍時代の徳川慶喜の写真と縞袴、刀掛け、蝙蝠という要素が共通しています。
昭武が京都に到着したのは元治元年1月28日(1864.3.6)で、その後、禁門の変や天狗党の乱にて慶喜と共に働きます。これらをはじめとする慶喜との交流を通じて、本写真や狩姿の写真が残されたのです。
(左下の写真キャプション)
徳川昭武(元治元年撮影カ)
1864.撮影カ 10.8×7.6cm SH-1
(右下の写真キャプション)
徳川慶喜(慶応2年12月撮影カ)
1867.1.撮影カ 8.2×6.7cm FH-2-16-6
毛利政子旧蔵資料
明治18年(1885)8月6日、徳川昭武の2女・政子(1885〜1977)は戸定邸で誕生しました。政子は、明治39年(1906)6月17日に長府毛利家16代当主・元雄(1877〜1945)と結婚します。
その後、昭武と政子は手紙のやり取りを続けます。政子の手元には、昭武から送られた手紙18通が残りました。中には「大乱筆御一覧後、速かに御火中御火中御火中」(大乱筆にて記した手紙なので、一通りご覧になった後すぐに焼却してください)と「御火中」を3度記すほど処分の念を押した手紙もあります。しかし、政子は大切に保管していたようで、現在まで伝わりました。これら毛利政子宛徳川昭武書状は姪・徳川宗子(武定長女、博武夫人、1914〜2013)の手を経て平成2年(1990)に松戸市へ寄贈されました。

(左の書状画像キャプション)
毛利政子宛徳川昭武書状(明治41年10月26日付)
徳川昭武 1908.10.26 20.5×25.5cm MM-17-1
(中央の写真画像キャプション)
徳川武定撮影の松茸写真
1908.徳川武定撮影 11.8×9.6cm MM-17-2
(右の写真画像キャプション)
毛利政子撮影と思われる松茸写真
12.8×10cm I-3-5-2-178
毛利政子宛徳川昭武書状からは、政子が写真撮影に励んでいる様子がわかります。明治41年(1908)10月26日付書状では、政子からの問い合わせに応じて、写真絵葉書を作るための葉書の種類と販売店、写真の現像液の作り方を伝えています。政子は昭武ら写真撮影の先輩に教えてもらいながら写真撮影に励んだのでしょう。
また、同書状には徳川武定が撮影した松茸の写真が同封されていました。昭武はこの写真の裏面に「出来損ない御笑草」と記し、書状では「従五位(=武定)之写真御笑草ニ御目ニ掛ケ度、此手紙ト同時ニ指立候」と述べています。つまり、「武定が撮影した写真は、出来損ないのでお笑い草にしてくれ。」と政子に伝えているのです。この写真以外に武定が撮影した写真は発見されておらず、昭武の(辛辣な)評価に心が折れたのかもしれません。
この書状を受け取った政子は、絵葉書と松茸写真を昭武に送りました。政子撮影の松茸写真について昭武は、「実ニ上々之御出来誠ニ感服仕候」と評価しています。また、昭武はこの写真を「福原等」に見せると伝えています。「福原」とは、水戸徳川家家扶の福原脩です。福原は高度な撮影技術を持っていました。政子の松茸写真は、福原に見せても恥ずかしくないほどよく写っていると評価されたのでしょう。
松戸徳川家資料には、このとき政子が昭武に送ったと思われる松茸写真が伝わっています。「出来損ない」と評価された武定の写真と比べると写りが良いのがわかります。同じ被写体をほぼ同じ画角で撮影し、弟・武定よりも写真撮影が上手いと誇示しているように見えてきます。
その後も政子は写真撮影を続けました。同年11月16日付書状では、「写真其後モ不相変御撮影相成候ヤ、水道橋へ御送ノ犬之写真モ一覧、誠ニよく写居り感心仕候」と昭武が述べており、政子が犬の写真を撮影し、水道橋の松平頼壽・昭子(昭武長女)夫妻に送っていることがわかります。翌年12月28日付書状には、「匡殿(=政子長男の元匡)写真御手製之由、よくあの位に撮れ候事と感服仕候」と記され、政子が息子の元匡を撮影した写真を昭武に送っています。いずれの写真も「感心」や「感服」と昭武は述べており、政子が撮影した写真については一貫して高く評価しました。
参考文献
東京高等師範学校附属中学校『東京高等師範学校附属中学校一覧』(東京高等師範学校附属中学校、1906)、小澤圭次郎「明治庭園記」(日本園芸研究会編『明治園芸史』日本園芸研究会、1915)、東京市編『東京市史稿』遊園篇第3(東京市、1929)、須見裕『徳川昭武 万博殿様一代記』(中央公論社、1984)、津山郷土博物館『津山藩の江戸屋敷』(津山郷土博物館、2001)、小寺瑛広「一橋徳川家旧蔵写真にみる写真受容と徳川家一族の交流」(『学術調査報告書Ⅺ 一橋徳川家旧蔵写真資料 初期写真編Ⅰ』茨城県立歴史館、2024)、青木隆幸「飯田藩堀家江戸藩邸の基礎研究」(『飯田市美術博物館 研究紀要』34、2024)、大沼大晟「【資料紹介】津山松平家分家伝来 松平浪子宛徳川慶喜書状(Ⅰ)」(『松戸市立博物館紀要』33、2026)
戸定歴史館刊行物 『将軍のフォトグラフィー』(1992)、『徳川慶喜家 最後の家令』(2010)、『プリンス・トクガワ』(2021)、『松平男爵家の軌跡』(2024)
凡例
・本書は令和7年度松戸市戸定歴史館通常展Ⅱ「お初にお目にかかります 大集合!初めて展示される資料たち」の展示解説である。
・本書には全ての展示資料が掲載されているわけではない。
・掲載資料は全て当館所蔵である。津山松平家分家資料には「MN-」、須見裕旧蔵資料には「SH-」、毛利政子旧蔵資料には「MM-」、古澤秀彌旧蔵資料には「FH-」の記号と資料番号を記している。特に記号のない場合は松戸徳川家資料である。
・漢字は、一部の人名、固有名詞を除き、常用漢字を用いた。
・本書の執筆・編集・レイアウト・DTP作成は大沼大晟(当館学芸員)、小寺瑛広(当館研究員)が担当した。
個人的な見どころポイント!
松戸市戸定歴史館を見学しました。徳川昭武の長女が嫁いだのが我が母校本郷高校の創設者、松平頼寿先生(高松松平家)で、お二人の写真を拝見いたしました。私の学生時代はご子息の頼明校長先生で実に品のある校長であったことを思い出しました。本郷も偏差値爆上がりしたけど自分らの時代は楽しかった… pic.twitter.com/qvXoI19CvR
— 松戸ペディア (@matsu_traveller) April 14, 2026
パンフレットや展示リストを見ていてグッときたのは、歴史に名を残す方々の「家族としてのリアルな日常」が垣間見えるところです。
例えば、昭武の次女である政子さんは当時としては珍しく写真撮影に熱中していたそうで、昭武と写真の現像について手紙でやり取りをしています。さらに、弟の武定が撮影した松茸の写真を、昭武の書状の中で「出来損ないの御笑草」と(少し辛口に?)評して政子に送っているエピソードなども残っています。
雲の上の存在に思える将軍家や御三卿の一族にも、こういった温かく微笑ましい家族のやり取りがあったことが分かると、一気に親近感が湧いてきますよね。
必見!学芸員さんによる展示解説が間もなく開催
展示の背景をより深く知りたい方に朗報です!
今月、4月25日(土)の13時30分から、学芸員さんによる展示解説が行われます(約30分程度)。
事前申し込みは不要で、戸定歴史館の入館券があれば誰でも参加できるとのこと。展示の裏話や資料の詳しい解説を直接聞ける大チャンスですので、ご都合がつく方はぜひこの日を狙って足を運んでみてください!
開催概要
- 会期: 令和8年(2026年)2月14日(土) 〜 5月31日(日)
- 開館時間: 午前9時30分 〜 午後4時30分(午後5時閉館)
- 休館日: 毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)
- 入館料: 歴史館・戸定邸共通入館券 一般320円、高大生160円など(中学生以下・障害者手帳をお持ちの方と同行者1名無料)
- 場所: 松戸市戸定歴史館(松戸市松戸714-1)
- アクセス: JR・京成松戸駅東口下車 徒歩約10分
会期は5月末まで続きます!初公開の貴重な資料の数々を、ぜひ戸定歴史館で体感してきてくださいね。

