
ごあいさつ -松戸市教育委員会-
ごあいさつ
松戸市が美術作品を持っていること。
松戸市に美術館準備室があること。
ご存じでない方もいらっしゃると思います。
40年以上収集・研究を続けてきた松戸市の美術コレクションは、研究者や美術館関係者から「良い作品を持っている」と高く評価されてきました。松戸市のデジタル美術館・デジタルミュージアムの公開が始まり、ここ数年は、東京都や千葉県内をはじめ他の美術館からの貸出依頼が毎年あります。
そして昨年令和7年(2025年)、松戸市は、開館10周年をむかえるナショナル・ギャラリー・シンガポールの特別展に、松戸出身の画家・板倉鼎とその妻・須美子の油彩画を5点貸し出しました。板倉鼎の代表作のひとつ《赤衣の女》は、この特別展にあたって世界中、数十の美術館から集められた膨大な作品の中からメインビジュアルのひとつに選ばれ、板倉夫妻の作品は、国内外で注目が集まっています。
そんな今だからこそ、「まつど発」の美術を再発信したいと考えました。美術の展覧会は、「アートが好きな人、わかる人に向けたハードルの高いもの」、「見たってよくわからないし…」というイメージを持たれるかもしれませんが、今回の展覧会のテーマは、「まつど」です。
本展覧会を通じて、松戸の地理や歴史、お住まいの地域への関心が高まると同時に、「美術って興味ないけど、知っている場所の絵で親近感わいた」、「松戸市が持っている他の作品も見てみたい」、と思っていただければ幸いです。
展覧会が開催できること、コレクションの調査や研究を進めていけること。
それは、松戸市に素晴らしい作品、貴重な資料の数々をご寄贈くださった作家の方々とそのご家族、そして地域の皆様、松戸市の文化行政をご支援くださっているすべての皆様のおかげです。改めてこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
松戸市教育委員会
まつどの美術って?
まつどの美術って?
今回ご紹介するのは、松戸市内で制作された絵や版画、写真などの美術作品です。美術の説明も入れつつ、昔の様子がわかる古写真と一緒に展示することで、歴史、暮らし、自然といった美術ではないところを気にして見てみることもできます。見る人によっては美術の展覧会っぽくないと思われるかもしれませんね。
坂川、江戸川、古ヶ崎、千葉大学園芸学部、矢切…この展覧会で飾られている作品は、あなたの知っている風景ではないですか?もしかしたら、もう無くなってしまった風景もあるかもしれません。
今回の展覧会では、戸定邸の主・徳川昭武を含めると7名の作家の作品を展示しています。
それは同時に、松戸市に作家が作品に残したいと思う風景があったこと、かつての風景が無くなってしまっても作品の中に息づいているということでもあります。美術作品は、記録することをいちばんの目的にしたものではありません。でも、作家に「作品にしたい!」と思わせた風景は、多くの人の心に残る風景でもあるのではないでしょうか。
田中寅三
田中寅三〜絵画から見るまつど
田中寅三(1878-1961)は、東京美術学校出身の洋画家※です。
海や水辺の風景、船、植物、身近な人物像などを多く描きました。「白馬(はくば)会」や「五更(ごこう)会」といった画家の人が集まるグループに参加して、その会が開く展覧会に作品を出していました。ほかにも、「海洋美術展」という展覧会にも何回も作品を出して入選しています。
実際の絵を見てみましょう。油絵の具を重ねて塗ることで、木や葉のデコボコした感じを出したり、波が動く瞬間の水の感じや、雲が風で動いていく感じを描いている絵がたくさんあります。遠くから見るほうが、本当の景色に似て見えるかもしれません。
油絵の具を使っていない絵は、鉛筆で細かいところまで描いたり、水彩絵の具で薄く何回も色を塗ったりして描いていて、近づいてみると描いたものの表面がどう描かれているかよくわかります。
描くものをよく見て同じように描く、「写生」という絵の基本ができているので、いろいろな描き方をしても絵を完成させていくことができるのでしょう。
※ 洋画家=ヨーロッパで使われるようになった「遠近法」という絵の描き方や影をつけて立体的な感じを出して描く絵を「洋画」、と(今回の展覧会では)考えることにしています。洋画を描く画家のことを、洋画家と呼ぶことにします。
さて、田中寅三と松戸はどのようにつながっているのでしょうか?
学校がキーワードです。
田中寅三は、千葉県立高等園芸学校(=今の千葉大学園芸学部ができる前の学校)や、松戸高等女学校(=今の千葉県立松戸高校になる前の学校)で、絵の先生をしていました。1922年頃、松戸市内に引っ越してきて、亡くなるまで住んでいました。絵の先生をしながら、多くの作品を描いていて、松戸市内の坂川が流れているあたりや古ヶ崎、仕事先だった高等園芸学校を描いた絵は、大正時代から昭和時代にかけての松戸が、今より自然ゆたかで町の中心部まで緑がたくさんあったことをよく伝えています。











おかえりなさいのミニ展示 -板倉鼎・須美子-
┣板倉鼎・須美子展(2024年4月6日~6月16日・千葉市美術館)に行ってきました
板倉鼎・須美子展(2024年4月6日~6月16日・千葉市美術館)に行ってきました「板倉鼎・須美子展」鑑賞のため千葉市美術館に行ってきました。板倉鼎・須美子展チケット チケットは板倉鼎「雲と秋果」となっていました。板倉鼎・須美子展を鑑賞して 私の感想を先に書かせていただきます。 私は板倉鼎一家が1929年(昭和4年)に次...
おかえりなさいのミニ展示
板倉鼎(いたくらかなえ)・須美子(すみこ)夫妻は、1926 〜 29年にかけてパリに滞在し、創作活動に取り組みました。
2人は、24歳と17歳で結婚、結婚した翌年にハワイ経由でパリへ留学します。フランスの展覧会へ出品し、2人とも入選したこともありました。もっとすごい作家になるだろうと期待されていましたが、パリで生まれた子供のうち二女が急に亡くなって、それに続くように1929年9月、鼎は28歳で病気で亡くなってしまいます。21歳の須美子は、長女と一緒に帰国しますが、長女も帰国の次の年に2歳で亡くなり、須美子本人も1934年、結核(けっかく)という病気で25歳の若さで亡くなりました。
板倉夫妻の絵や残した品物は、ご家族が大切に守って残してきましたが、現在は、松戸市やいくつかの美術館へたくさんご寄贈(きぞう)いただき、次の世代へつないでいくための活動・研究が続けられています。
このコーナーで展示している板倉夫妻の絵5点はパリで描かれたもので、1929年、須美子が帰国するときに日本へ送った作品の一部です。それから100年近く経った昨年、ナショナル・ギャラリー・シンガポールから、ぜひ展示したいという依頼(いらい)があり、作品はシンガポールに貸し出されました。シンガポールでは、鼎の《赤衣の女》が美術館入口の大きい展覧会の看板に使われたり、美術の専門家だけでなく一般の方からも人気で、日本語ガイドツアーでも紹介されました。展覧会が終わって、作品は日本に戻ってきましたが、考えてみると、これらの絵が日本に入国するのは2回目になりますね。今回の帰国は、たくさんの人に見てもらった、すてきな絵だねと言ってもらった、うれしい思い出と一緒の帰国となったのではないでしょうか。
板倉鼎








板倉鼎 〜 故郷まつど
板倉鼎(1901-1929)は、父親が松戸で病院を開いていて、医者になるようにと言われて育ちました。優秀な学生があつまるエリート校である千葉中学校(今の県立千葉高校)に進学した鼎は、学校生活の中で美術に興味をもって、どうしても画家になりたいと絵の勉強をするようになります。父親は反対していましたが、鼎が東京美術学校(今の東京藝術大学)に合格、大きい美術展に入選するなどしたこともあってやっと許してくれたので、卒業後は画家として生きていくことを決めます。このタイミングで出たのが、須美子との結婚の話でした。この結婚は、古ヶ崎に須美子の親せきが釣りに来ていたことがきっかけで話が出たのだそうです。
シンガポールへ貸した作品と、反対側のこちら側に展示しているのは、鼎が10代からパリへ出発するまでの間に松戸市内で描いた絵です。妹の弘子さんのお話やこれまでの調査によると、鼎は、古ヶ崎など坂川ぞいによく写生に出かけていたそうです。古ヶ崎は昔、いくつも川が流れていて、釣りができるほどの大きな池がありました。水辺の風景を描いた絵が何枚もあり、絵を見ると、水の表現や、水面にかぶさってくる木の影、その場全体の空気の感じ…絵が描かれた時、その場所がどんな様子だったのかよくわかります。
また、鼎は、高等園芸学校の庭も絵に描きました。フランス式庭園には、画面の真ん中にフラワーベース(植物を植える台)があり、植えられた植物の赤や茶色が秋の雰囲気を伝えています。
海外で描かれた絵と、日本で描かれた絵。違う時期に、違う場所で、違う想いで描かれた絵を比べてみてください。憧れの街パリで描いた絵と、故郷松戸にいた頃に描いた絵はそれぞれどう見えますか?
絵を描く環境や絵を描くのに使った技術はその時で変わっていったかもしれませんが、板倉鼎・須美子夫妻が目にしたものや描いたものは、いつも大切な家族と身近な風景だったのかもしれません。
板倉須美子



板倉須美子
板倉須美子(1908-1934)は、結婚前の名字を昇(のぼり)といい、東京で生まれ育ちました。須美子は、13歳で当時の日本ではまだ珍しかった男女共学制の文化学院に最初の生徒(第1期生)として入学しました。文化学院は制服もないくらい自由な雰囲気の学校で、須美子は、フランス語を勉強したりピアノを習ったりしていたそうです。17歳で中学部(今の高校)を卒業し大学部に入りましたが、板倉鼎との結婚が決まり、学校をやめました。同じ年のうちに結婚した2人は、翌年、パリ留学に出発します。船でハワイに行って4か月くらい暮らした後、アメリカ大陸を通ってフランスへ。2月に日本を出てパリに到着したのは7月の終わりでした。
パリで今までとはちがう絵を描こうと日々、絵に向きあう鼎から須美子は絵を教わり、本格的に絵を描くようになります。パリに来た次の年、2人で出したコンクールに2人とも入選しました。ずっと絵を描いてきた鼎もさすがですが、まだ絵を始めたばかりの須美子が選ばれたのもすごいですよね。2人とも才能があって注目されるようになっていきます。須美子の絵は、パリに来る途中で過ごしたハワイを思い出させる風景の中に人物が描かれているものが多く、人物や風景も平面的に、わりとはっきり描かれています。特に「ベル・ホノルル」とタイトルがついたシリーズは、パステル調のかわいらしさがある色使いで、本当の景色とは少しちがって見える夢の中のような雰囲気です。
パリで描かれた鼎の絵は基礎になる技術がきちんとある上に、当時のパリで生まれていたキュビズムなど新しい芸術を吸収したものでした。絵に描かれているものそれぞれが影響しあっていて、見る人の目が絵の全部に向くように、でも主題がいちばん印象に残るように工夫されています。
徳川昭武
徳川昭武〜写真で見つめるまつど
板倉夫妻が憧(あこが)れ、夢の途中で鼎(かなえ)が亡くなった華の都・パリ。戸定邸の主・徳川昭武(1853-1910)も2回留学した街です。昭武の2回目の留学は1876〜1880年。板倉夫妻よりおよそ50年ほど前のことでした。そして、昭武が亡くなる数年前の1907年頃、鼎は家族と松戸に引っ越してきました。昭武と鼎、2人は3年ほど、同じ松戸の町に暮らしていたことになります。町ですれちがったりしたことだってあったかもしれませんね。
江戸時代の終わりごろに生まれた徳川昭武の前半生は、10代で明治時代を迎えて、大きな歴史の流れに飲み込まれるような大変なものでした。昭武の後半生は穏やかで、30歳で移り住んでから56歳で亡くなるまで戸定邸を中心に生活し、時々家族と旅行に出かけ、狩猟や釣り、陶芸、庭造りなど趣味を楽しむ時間を過ごしました。そんな昭武は写真撮影に熱中し、松戸市内やまわりの地域へよく出かけて行っては、農作業や水辺の風景、地元の子どもたち、松戸の町を撮影しました。戸定歴史館に伝わっている松戸徳川家の写真は数百枚あります。明治時代の古写真と後の時代に撮影された写真で、松戸の町や水辺、市内の風景をたどってみましょう。
徳川昭武は、海外から取り寄せた植物の種を地域の農家に渡して育ててもらうことがあり、メロンを写真に撮ったりしていました。松戸は江戸時代から、人口の多い江戸に野菜を出荷していた生産地で、現在もネギや梨は特産品です。江戸川は人が舟で移動するだけではなく、米、野菜、魚のほか醤油(しょうゆ)などの各地の特産品を運ぶ物流ルートでもありました。
昭武の写真に写っている帆船や小舟は何を乗せていたのでしょうか。
長田国夫・及川修次
長田国夫・及川修次〜まつどを象徴する風景
まつどで有名なもの、と聞いたら何を思い出しますか?松戸市以外の人に知られているのは、江戸川を舟でわたる「矢切の渡し」、松戸名産の「矢切ネギ」ではないでしょうか。よそにも知られているこの2つの名所・名物は、どちらも矢切地区にゆかりがあります。
「矢切の渡し」:なぜ松戸の名所になった?
江戸時代、江戸川にはいつでもわたれる橋がかかっていなくて、川をわたるには舟が必要でした。その舟の乗り場=渡しが松戸にあったので、みんな松戸宿を通り、時間によっては、ごはんを食べたり泊まったりしました。松戸には3つ渡しがありましたが、今でも残っているのは「矢切の渡し」だけ。演歌でも歌われている名所ですが、「やきり」と発音するのが本当だ、という地元の方もいらっしゃいます。
写真家・及川修次は、利根川の流れにそって撮影したシリーズでこの「矢切の渡し」を撮影ポイントに選びました。しかも、冬。だれもいない雪野原の向こうに渡し舟が見えます。暗く水を反射する江戸川と、手前の雪の積もった地面は同じくらいの幅に写っていて、左方向へ斜めに流れていくようにも見えます。お客さんが乗り降りしているにぎやかな季節、時間ではない、静かな風景もまつどの一部です。
「矢切ネギ」:なぜネギが特産品なのか?
まつどを含む東葛地域は、「牧」とよばれる馬の放牧地(ほうぼくち)が多くある土地でした。一方で、大都市・江戸に新鮮な野菜を出荷する畑作がさかんな地域でもありました。「矢切ネギ」は、明治時代の初めごろ、東京の千住(現在の足立区)の名産だった千住ネギの種をもらって育て始めたところ、洪水でたまった土が育てるのに向いていることがわかり、どんどんネギが栽培されるようになったそうです。もちろん、育てやすいだけではなくて味もおいしいので、今では買うのが大変なくらいの人気です。そんなネギの畑を作品に残したのが、長田国夫です。絵の具を濃くしっかりと塗りかさねて、輪郭を取る描き方で描かれた《葱畑(ねぎばたけ)》は、ネギの成長具合や空の暗さを考えると真冬でしょうか。長田は、ルオーというフランスの画家の影響を受けていると言っていて、絵の力強い描き方がいきいきと成長しているネギの様子を感じさせます。
「美術と歴史の眼で見るまつど」パンフレット




「美術と歴史の眼で見るまつど」アートマップ




