戦後
終戦後の国民生活の困窮は大変なものでした。日常生活物資の不足から物価は高騰し、主食の配給は遅配・欠配が続きました。それは松戸市民も同じでした。また旧陸軍工兵学校の施設に収容されていた罹災者や外地からの引揚者、旧軍用地に入植した開拓者など生活支援を求める人々に対して、放出物資、あるいは米国救援物資(ララ物資)が支給されました。
1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争による特需景気、農地改革の実施による農業生産力の向上により、日本経済は復興していきました。
1955(昭和30)年11月、日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)が、金ケ作地区に大規模な住宅団地の造成計画を発表しました。常盤平団地と名称が決まり、入居が始まったのは1960(昭和35)年4月です。
常磐線は古くからある路線で、電化以前に複々線化されたり、昭和10年代に北小金駅で出征の見送りがされたりと、以前から人々の移動手段になっていました。常磐線で上野まで1本で移動でき、都内への通勤圏である松戸市は、ベッドタウンとして人気が出て人口が急増し、その後の発展の足掛かりとなりました。
出典:「平成27年度常設展図録 松戸市平和祈念展」(松戸市立博物館2015年)、「ぬきたた松戸市制50周年記念誌」(松戸市1993年)から抜粋















