人々の交流
遺跡から出土する遺物のなかには他の地域で作られたと思われる土器や松戸の近辺では入手できない石材で作られた石器などがみられます。
これは縄文時代の人々が近隣だけでなく遠く離れた地域とも交流をもったことを示し石材の産地と松戸を結ぶルートも海・山を越えて広がっていたことを物語っています。
人々は険しい峠を越え丸木舟で海を渡ったことでしょう



















中国大陸や朝鮮半島から渡来した多くの人々が日本に新しい技術をもたらしそれによって弥生時代は幕を開けます。とくに、稲作文化の流入は大きな影響を与えました。
水田の開墾や灌漑は集団作業を必要とし指導者の出現をうながしました。
また、開墾された水田はそれぞれの集団の所有となり土地への結びつきが一段と強まりました
遺跡分布の変化
下総台地は、樹枝状に小さな谷が入り組む地形を特徴とします。
この地域の弥生時代後期から古墳時代前期の集落は小さな谷に面しているのに対し、古墳時代後期には割合大きな谷沿いにまで分布を広げます。これは古墳時代に谷奥から谷口にまで徐々に水田開発が広がっていったことを物語るものと考えられます











河原塚1号墳
河原塚1号墳は縄文時代後期の貝塚の上に築かれた古墳で、盛土にも貝塚の土を使用しています。
そのため、人骨の遺存状態も良く、墳丘の中央の木棺には、身長172cmで50歳を越える男性と3歳位の幼児が埋葬されていたことが判明しました。肉親だとすれば、祖父と孫といった関係かもしれません。



