

松戸のあけぼの
旧石器時代の人々は小さなグループにわかれて移動生活をする狩猟採集民でした。
このような当時の人々はどんな自然環境のもとでくらしていたのでしょうか。
そしてどんな場所に住みどんな石器を使っていたのか。
また、ほかの地域とどんな交流があったのか。
遺跡とブロック
旧石器時代の遺跡は台地上の関東ローム層とよばれる火山灰の地層の中から発見されます。遺跡からは石器がブロック状にまとまって出土します。石器は作られた時期や用途の違いによってさまざまな形をしています。


石器作りとムラ
ブロックは石器作りをした場所です。その場に残された石器をつなぎあわせていくと石器作りの順番がわかります。ふつう遺跡には数ヶ所の石器作りの場があります。そうした場が数ヶ所集まってムラが形成されています。


石器と石材
石器の材料には石器作りに適した石材が選ばれました。なかでも、黒曜石・頁岩(けつがん)・安山岩は三大材料といわれています。松戸の遺跡でもそうした石材が使われ、年代によって使われた割合が変化しています。この変化から、松戸がどの地域と強く結びついていたのかがわかります。



縄文人のくらし
約1万年前
寒冷な氷期が終わると気候の温暖化につれて環境は大きく変化します。
海面は上昇し、海が陸地に入りこみ森には木の実や動物が豊かになりました。
山の幸、海の幸に恵まれた縄文時代の人々は土器や弓矢を発明し木の実や貝の採集、狩りや漁によって次第にくらしを安定させやがて定住的なムラをつくりました。







ムラのうつりかわり
縄目文様を特徴とすることから名付けられた縄文土器を基準にして縄文時代は草創期から晩期まで6期に区分されています。当時の「奥東京湾」に面していた松戸市域には環境にも恵まれてたくさんのムラがありました。気候の変動による海岸線や動・植物相の変化そして技術の発達などによってムラは盛衰を繰り返しました。
ムラのはじまり-草創期・早期
草創期は、狩りの道具が槍から弓矢へと変化し、煮炊き用の土器が使われはじめるなど生活に大きな変革が訪れた時期といえます。早期になると、数軒の住居が集まって小さなムラができ、定住的な生活がはじまりました。松戸でもこの時期に住居がつくられ、住居の外には調理用の炉が設けられました。



大形のムラの出現-前期
関東地方有数の規模をもつ幸田貝塚のように格別に大形で、地域の拠点となるムラの遺跡規模がきわめて小さく短期間だけ使われた遺跡があります。広い台地上の径250mの範囲に点々と貝塚がめぐる幸田貝塚からは、約150軒もの住居跡が相互に重なりあって見つかっています。住居の形は台形・長方形・方形・円形などで、大きさも大小さまざまです。


前期の道具
狩猟具・工具・調理具など縄文時代の基本となる道具や装飾品が出揃いました。道具は石、鹿の角、骨、木や蔓など様々な材料で作られ、なかでも木を使った道具は縄文時代を通じて盛んに使われていました。


ムラの発展-中期
中央に広場をもつ遺跡が多くなり、数も飛躍的に増加します。子和清水貝塚は径約200mの大きさで、広場を囲むようにたくさんの円形の住居跡と貯蔵用の穴が並んでいます。子和清水貝塚・東平賀貝塚のように比較的大形で核となる遺跡と中峠貝塚・通源寺貝塚などのように中形の遺跡がみられます。


中期の道具
まつりの道具である大形の石棒や漁網の錘である土器片錘が加わってきました。中期には土堀り用の打製石斧や土器片錘がたくさん出土しています。土器片錘などは内湾での漁が盛んであったことをうかがわせるものです。



貝塚とムラ-後期
松戸では大形の遺跡はなくなり、殿平賀貝塚・貝の花貝塚など中形の遺跡が多くなります。貝の花貝塚は径約90mの大きさで、東側に円形の住居が弧状に並んでいます。また、格別大形の住居がつくられ墓域が定まってきました。この時期に面状に広がる貝塚がつくられ、環状貝塚が形成されてきます。

後期の道具
装飾性の強い土器と実用的な土器、そして注口土器や台付土器など用途に応じた器がつくられるようになり、器の種類が多くなりました。また土偶や石棒などまつりの道具が全体に増えてきました。



縄文ムラのおわり-晩期
気候が現在より涼しくなって、自然環境も大きく変わり生活条件は悪化してきました。ムラの数は極端に減少し、遺跡からはまつりに使われた道具の出土が目立ってきます。自然の恵みに多くを依存してきた縄文社会は次第に変わっていき、人々は新たな食料や技術を受け入れはじめました。



丸木舟
横須賀出土(現在の小金高校付近)
縄文時代後期以降
長さ5m57cm 幅45cm








